許すということ ①
つづきの話。
毎日、あれやこれやと昔のことを思い出しては、本当に
心の中で、夢の中でも、父を殴っているわたしがいたりした。
許せない気持ちのやり場がない。
祈るような気持ちで、どうか、この感情から抜け出させてください。
もはや、父がどうとかいうよりも、
自分の感情から自分が楽になりたい。
その気持ちが最高潮に達したとき、そのとき、まさに、新宿のアーケードを歩いていたときだった。
ふと、
幼い5歳くらいの父が現れて、わたしを追いかけてくるような場面が現れて、
わたしは、その幼い父に何か言い聞かせて、彼をなだめると
家を出て行ったのだった。
継ぎはぎだらけのこ汚い着物を着た幼い父。
それを置いて、家を後にしていく着物姿のわたし。
瞬時のそれが、過去生だとわかった。
ドラマ「おしん」の幼少期のような家と着物姿だった。
家はまずしくて、わたしは自分の子である幼い父を人に預けて
出稼ぎにいったのだった。
しかし、迎えにいきたかったけれど、経済的にもそれが叶わず、
幼い父は、そのままわたしに、 「裏切られた」
という思いを残したまま、世を去ったのだった。
しかも、子供のうちに亡くなっているっぽい。
それが、新宿を歩きながら、パラパラと頭にやってきて、
いろんな情報を瞬時に伝えられた。
わたしは、このシーンと、父がわたしに裏切られたと思って憎んだ感情が
手に取るように、わかって、
当時のわたしは、裏切ったわけではなかったけれど、
結果的に迎えにいくことができずに、彼にその感情を抱かせたということがわかった。
幼い父の感情を理解したとたん、
ものの見事に、わたしの心にあった、「許せない」気持ちが
ポンと消えうせた。
あのとき父が体験した感情を、今生で、わたしが体験させられている。
裏切られた、許せないという気持ち。
どうして、父が小さい頃からわたしだけに、いつも八つ当たりしていたのか、
どうして、あんなにも、人の気持ちがわからないほどに、根が幼いのか。
そういったことが、まるっとひっくるめて、ポンと抜けたのだった。
心には、もう「許せない」感情はなくなっていて、
その代わりに、長い時間を経て、撒かれた種を摘み取ったような
大きなものを感じていた。
そして、
「許す」 ということは、 「許してもらうこと」 と同じことだなとわかった。
怒りの解放の仕方にはいろいろあるし、
それでも解放できなくて、
とても根が深く苦しいと思うようなとき、
それは、いまの自分じゃわからない理由があるかもしれない。
そのたびに、過去生をさぐればいいのかということではないのだけど、
このことで、学んだのは、
人が人を許すということも、許してもらうということも、元は同じことなのだなと思うようになった。
わたしの場合、運よく昔のことが思い出されたと思う人もいるかもしれないが、
本当は、昔のことを思い出さなくても、
「人を許す」ということは、
そのテーマにおいて、どれだけ神聖な仕事をしているかということ、
許せない感情に苦しむのも、自分自身であるし、
許してもらえないと悩む人も、また同じように苦しいだろうし、
どうして、その縁が、そのようになったかどうかというのは、
いまの自分には、わからないことがたくさんあるのだと思った。
だからこそ、その渦中にあるときこそ、
許せない感情を持つことも、許してもらいたいと思うことも、
どちらも、同じくらいに
神聖な作業をしているのだと、
まず、苦しい自分を褒めてあげたいと思う。
そして、話してわかることなら、会話をし、
そうならない場合のとき、あくまで、どんな感情を持った自分を責めることなく
いま、必要に訪れて、それを学んでいる最中なのだと
その学びの偉大さのことを、想って
自分責めることなく、感情が解放に向かうように、
日々、ひとつひとつを慈しんでうけとめていければと想う。
苦しみは、必ず抜け出せるときがやってくる。
そして、そこに大きなギフトが必ず待っていると知っている。
毎日、すべての感情、お疲れ様。
そして、ありがとうと想う。
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