店長コラム

全ては魂の飛躍のため

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今日は、ちょっと驚くようなことがあった。

展示会の打ち上げが中止になり、息子と二人で夕食に出かけたところ、

入った焼き肉屋さん。土曜日なので、混んでいるよう。

席にやっと通されて、アイパッドで注文できるからと、料理と飲み物を注文したところ。

こない。

店員さんをしばらくして呼んで見ると、なんと注文したオーダーが斜向かいのテーブル届いていたというのだ。

そのテーブルの方達も、私たちが頼んだ料理に口をつけてしまっていたということで。

店員さんは、すぐにそちらのテーブルの後始末に向かってしまった。

けれど、私たちは、オーダーを待たされてしまっている挙句に、まだ注文ができていない。

店員さんは、向こうのテーブルにしきりに謝り、口をつけてしまっている料理に関しても、伝票から引くと言っていたのが聞こえた。

私は、ちょっと苛立ち、向こうの対応もあるだろうが、後回しにされて、オーダーすらできていない状態。

アイパッドが、向こうのテーブルの端末になっていたことも、私たちには、関係のないことだ。

店員に、こちらもオーダーをさせて欲しいと伝えると、やっと怒りが伝わったようで、対応してくれた。

注文もたどたどしく、テンパっているのがわかったけれども、

対応に追われているのはわかるけれども、私には随分待っているという気持ちがある。

いい気分をしていないが、伝わっているようだった。

そして、店員さんの大きなミスは、斜向かいのお客さんに、私たちのテーブルの端末が誤作動で、

自分たちのテーブルにつけられていたということを伝えたことだった。

私たちにも伝えているのだから、向こうにも伝わっている。

向こうのお客さんが頼んだものが、こちらに運ばれてきてしまっていて。。。

そちらのお客さんも、なぜかわからないで、ひとテーブル分を口をつけてしまっていたのだから、そこも、

私にしたら、「頼んでいませんけど?」と言えば、済む話だと思えたのだった。

向こうにも、嫌な感情がわき、お腹も空いていたからか。

食事も早々に切り上げて、帰る際に、テーブルを横切った時に、ヤンキー風に奥さんが、

「何にも言わないで、素通りか」

みたいなことが聞こえたようだった。私は息子と黙って通り過ぎたが、悪いとは思えない。

もし。何か言われたとしても、「それは、こちらのミスではないので、お店に文句を言ってもらえますか?」といえる。

自分が、何かしたわけじゃない、文句言われる筋合いなどないと、もやもやが湧いた時に、

「私は、なんでこんな経験をしているのだろうか?」

自分に問いかけてみた。

いい気持ちを味わいたくて、お店にきたというのに、どうしてこんなことがあったの?

この体験から得られる気づきは何だろうか?

それを問いかけてみた。

すると、


「許す」

と言うことだった。

それは、相手のことと言うよりも、相手の中にみた、「責める」と言う感情。

私は、どちらが、正解か、店員のミスや、私たちに何か投げかけたテーブルの奥さんや、

そう言う、「ここは正すべき」と言うところに囚われいる自分の開放だった。

何かあった時に、誰に非があるか?

大体なら、この話をすれば、店員が悪いとか、お店の対応の問題と言う言葉が出てくると思う。

そこがもう少しきちんとされていれば、私と相手のテーブルの人は、面識も何も感情を持つことがなく、

店員はただ、お互いのテーブルに、

「他のお客様のテーブルに・・・」と言えば済むことだったのだから。

けれど、そこを指摘したくなる、私がいて、接客してるなら、お店のミスを他のお客様同士がトラブルになるようなことになるなよ!

と言いたい。

そう、責めている自分自身、面白くなかった、嫌な思いをした、オーダーが随分待たされて、またトラブルがあった時に、自分たちのテーブルが後回しにされたと言う悔しさを感じた自分自身のことも、

「許す」

と言うことなのだと思った。

何かがあると、今の時代は、いろんな知識や情報があるので、

「問題は、どこにあるか?誰が一番悪いか?」

みんなで、鬩ぎ合ってしまう。

けれども、本来は、愛ある行動をすること。

自分のハートの中にある愛から出る行動をすることが、

自分の本当の成長になる。

誰が悪いのか、責任の追求は誰がなされるべきか?と言うことを、正しく判断し、導き出し、正解を言うことが、

自分のハートにとっては、何ら益をもたらさない。

もしかしたら、私たちに何か言った奥さんも、大変な中にいて、気持ちに余裕がない状態なのかもしれない。

相手を責めてしまうくらいに、自分にゆとりがない状態なのかもしれない。

それは、私自身もそう。

誰が悪いか、どれだけスタイリッシュに正解を考えられるかというじゃなく、

どこに問題があるのかというのが、自分ではっきりわかるようなタイミングの時は、

問題提起じゃなくて、

自分にどういうことを気づくタイミングが与えられているかという、

魂の答えの方が大事なんだとわかった。


何か問題があるときは、全て魂の飛躍のために起こること。

私たちは、自分が思っている以上に愛されている存在。

もしうまくいかないと思うときは、

その時間を得ることが、私たちの魂に必要だということ。

思っている以上に、私たちは、魂に愛されている。






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